・洋装の普及で1960年代前半かをピークに需要は急降下。
・年間生産量は日本全体で1935(昭和10)年に150万~160万反、60年代初めには数百反に達したが、現在はわずか一万反前後と、百分の一以下。
・契約する職人は現在三軒に減り、織りの技を進化させるには限界。 |
矢代仁が仲立ちして、ちりめん名産地の京都府京丹後市の職人と、西陣の機織り職人の協業を実現。280年間、モノづくりの場としてきた「西陣」の殻を破った。 |
・上質の絹糸を使い徳川将軍家や豪商らがファン。
・明治維新で徳川家や大名が没落し打撃を受けたが、庶民のあいだで社交用や外出着としてお召しが普及。
・きめ細かさを追求した織物が生まれる一方、糸は太めだが気楽に着ることができる素材なども登場。商品の幅が広がり、大衆へと浸透していった。
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・自社の歴史、沿革。
京都市の呉服商の三大老舗
・京友禅の千總(ちそう)
・帯の川島織物(現・川島織物セルコン)
・「お召し」の矢代仁(やしろに)
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成長と持続
の条件
目標は? |
・丹後の機織り職人に長野県安曇野市内の九つの養蚕家、大阪の専門店などを結びつけ、天蚕糸を使った高付加価値織物を生産・販売する「農・商・工」サプライチェーンを構築。 |
・「技の向上に終わりはない」。伝統に縛られず事業モデルを柔軟に変え、新しい需要を創造する。
・「百万円お召し」は「丹後ちりめん」の技術と西陣の伝統の技を融合したもの。お召しの品質を左右する糸を撚る技術は、現在は丹後地域が西陣を上回るという。「一メートルの糸を三千回も撚って50センチほどに縮める技法など、西陣が失った技が受け継がれている」 |
・京都西陣の機織職人を11軒、系列化におき、できあがった織物は不良があってもすべて矢代仁が買い取るという契約。この仕組みは職人を失敗を恐れずにモノづくりに打ち込ませ、技術が急速に進歩。 |
・「祖父・七代目以来の『慎みて祖業を墜とすことなかれ』という戒めに立ち返る」として、本業強化で攻勢をかける。 |